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近年注目されている「量子インターネット」。そもそも、これぞ最強と言わんばかりに、その名に「量子」を冠しているのはなぜなのでしょうか 。
この問いに答えるため、筆者は先日、Entangled Networks社のCEO、Aharon Brodutch氏を訪ね、量子インターネットの何がそんなにすごいのか、一般の人々にとっても重要なことなのかを伺いました。
量子情報は、従来の古典力学に基づいた古典的情報とは大きく異なります。情報をインターネットで送信するとき、情報はビットで符号化され、 各ビットは「0」または「1」のいずれかになります。ところが量子力学では、システムは0と1の「重ね合わせ状態」をとることができるのです。有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験では、量子猫が「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせになります。つまり、死んでいるわけでも生きているわけでもないという、量子の世界以外では考えられない状態になるのです。この重ね合わせ状態は維持するのは非常に困難です。先ほどの猫の話に戻ると、猫はこの奇妙な重ね合わせ状態にいながらも、観察しようとすると、重ね合わせが崩れ、死んでいる猫か生きている猫かのどちらかが見えてしまうのです。この猫のように、量子ビット(qubit)は、0または1の重ね合わせの状態にできるので、さまざまな興味深い用途が可能になります。ただし、繰り返しになりますが、猫と同様、重ね合わせは非常に崩れやすく、システムが乱れると、すべての量子特性が突然失われることもあります。
量子ネットワークは、量子ノード間で量子情報を送信することができるネットワークです。量子コンピュータ、量子センサ、量子暗号モジュールなどがそのノードにあたります。小さな量子ネットワークによって、スーパーコンピュータのように、量子コンピュータをつないで連動させることが可能になります。量子インターネットとは、世界中の多数のユーザーが、量子コンピュータ、量子センサ、量子暗号モジュールなどの量子ノードから量子情報を送信できる大規模な量子ネットワークです。
量子インターネットの最もよく知られているユースケースは、データセキュリティです。量子システムは、重ね合わせ状態で存在できますが(死んでいるわけでも生きているわけでもない猫を想像してください)、重ね合わせ状態では観察できないため(猫を見ると、死んでいるか生きているかのどちらかであるため)、データセキュリティに最適なツールになるのです。暗号化技術を適用する最も簡単な方法は、情報の暗号化に使用できる安全な鍵を配布することです。さらに注目すべき適用例として、ユーザーが、コンピュータも含め、他の誰にも実行内容を知られることなく、クラウド上でプログラムを実行できる、プライベート・コンピューティングがあります。これは、クラウドコンピューティングへの移行が急速に進む世界において、極めて重要なセキュリティパラダイムになるはずです。想像してみてください。Gmailを使うのに、個人情報の保護をもはやGoogleに委ねなくてもよくなるのです。
2つ目のユースケースは、センシングです。量子センサは、従来のセンサに比べて格段に感度が高くなります。これも、重ね合わせ状態を維持できることがその理由です。量子インターネットでは、重ね合わせ状態を共有することで、複数のセンサを連携させることができます。これにより、世界中のセンサのネットワークをあたかも1つの巨大デバイスであるかのように動作させるといった、ユニークな状況が実現します。それでも問題がある場合は、先ほど述べたようなセキュリティ機能が、収集した情報を望ましくない暴露から無償で保護してくれます。
その質問に答えるのは、なかなか難しいですね。1960年代、初のパケット通信ネットワークであるARPANET を開発している最中に、世界規模のネットワークなど何に使うのですかと聞かれるようなものかもしれません。現在の(先ほど紹介したような)ユースケースは、政府機関や大企業など、データを保護し、極めて精密なセンサを使用する必要のあるパワーユーザーが中心になります。
彼らの視点から見れば、この新たな技術は、現在あるセキュリティやセンシング技術の延長線上にあるものです。違いは、クラウド上で量子コンピュータを安全に利用できることです。量子コンピュータは特定の計算を実行する上で画期的な能力を発揮しますが、構築や維持に高いコストがかかることが予想されます。しかし、安全に利用できて、しかも一元管理できれば、より多くのユーザーが利用できるようになり、莫大な計算資源を提供することになるでしょう。
さらに将来的には、量子インターネットが各家庭に導入されれば、極めて高いレベルのセキュリティと匿名性が実現します。繰り返しになりますが、自分が誰であり、何をしているのかGoogleに知られることなく、Googleを利用できることを想像してみてください。積極面においても消極面においても、その可能性は計り知れません。
現在、何らかの量子技術を利用している人なら、自分がこの技術を利用していることをはっきりと意識しているはずです。ただし、開発者が目指しているのは、ユーザー体験をできるだけシンプルにすることです。通常、コンピュータのセキュリティ機能がアップグレードされたり、インターネットプロバイダーがネットワークをアップグレードしても、ユーザーは気づきません。動作が速くなったことには気づいても、その理由まではわかっていません。これは量子技術の頂点ともいえる量子コンピュータでも同じです。ユーザーとして、以前は実行できなかったプログラムが今では実行できることに気づいても、それがなぜなのかまでは知る必要はありません。例えば、スマートフォンでNetflixをストリーミングするのに必要な技術を知る必要があるでしょうか。ほどんどのユーザーは画期的な技術的ブレイクスルーがあったことも知らぬまま、ただ、新しい機能が使えるようになったことを知り、電話料金が代わったことに気づくだけだと思います。
はい。量子インターネットの実現には多くの課題がありますが、その根幹にあるのは、十分検証された物理理論である量子力学に基づく基本概念です。もし、量子インターネットを不可能にするような根拠が見つかれば、それこそ過去100年で最大の科学的ブレイクスルーとなるでしょう。
量子通信は、過去50年間、学術として研究されてきましたが、21世紀に入ってから大きな発展を遂げました。ただし、それは物理学者や理論計算機科学者の間にとどまっており、現在も概ね同じような状況です。ところが、ここ数年、産業界へのシフトが生まれ、エンジニアリング分野でも注目されるようになりました。この領域が産業界では量子コンピュータほど活発でない大きな理由の1つは、量子インターネットの最も重要なユースケースには、ノードとして量子コンピュータが必要であるからです。
最近の米国政府の取り組みにより、産業界でも動きがあり、量子ネットワーク機器の構築を専門とするスタートアップ企業がいくつか生まれています。このほかにも、スタートアップから大手多国籍企業までさまざまな企業が量子暗号に取り組んでいます。長距離の量子ネットワークの実証には、さまざまな都市にわたるネットワークや人工衛星を使った量子通信があります。
量子コンピュータへの取り組みは、産業として近年急成長を遂げていますが、量子ネットワークにとっても重要です。量子コンピュータを開発するための現在の取り組みのほとんどは、ネットワーク化されたアーキテクチャを必要とします。つまり、多数の小さな量子コンピュータが(ローカル)量子ネットワーク上で連携して動作するのです。これは多数の計算ノード(各ノードが1台のコンピュータ)で構成される高性能コンピューティング(HPC)と非常によく似ています。量子コンピュータに必要なネットワークは量子インターネットとは異なりますが、基本的な構成要素は同じです。ほとんどの量子コンピュータ企業は、量子ネットワークについて検討しているか、積極的に取り組んでいます。この2年間、Entangled Networksなど、量子ネットワーク関連のスタートアップ企業が、「マルチコア」量子計算のネットワーク面に焦点を当てています。
本格的な世界規模の量子インターネットはまだ夢の段階であり、展開に必要な材料がすべて揃うのがいつになるのか予測するのは困難です。しかし、量子コンピュータ開発が精力的に行われる中、量子ネットワークの必要性が、この夢を実現へと近づけています。これはデータ保護という極めて現実的なニーズとポイントツーポイントの量子暗号が比較的成熟してきていることも関連しています。現在の業界ロードマップによれば、この10年の半ばにネットワーク化された「マルチコア」の量子コンピュータが必要になります(IBMの最近のロードマップを参照)。さらにロードマップによれば、量子インターネットに必要なコンポーネントがこの10年の終わりまでに完成することが予想されます。それから、やがて暗号化以外でのユースケースが成熟し、量子インターネット上での量子暗号化技術の必要性が高まることによって、産業界も政府機関も量子インターネット活用への道を進むようになるでしょう。